素晴らしきかな、横浜港の歴史

全国最大の港の原点

横浜港の歴史

開港博が行なわれた横浜港だが、そんな横浜港の原点を詳しく知らない、という人も案外多いのではないだろうか。ペリー提督の黒船襲来はともかくとして、横浜港そのものの歴史を知る機会など、実はあまり無いといっても良い。よほど横浜に対して尊敬の念にも近い感情を持っているか、もしくは横浜港に関する論文を書いている学者や研究者などの、教育機関関係者といった人でなければ、港という場所の歴史を知ろうとは思わない。ではそんな横浜港の歴史を原点から現代までの歴史を紐解いていくことにしよう。

概要

まず現在の横浜港自体の利用状況についてだが、日本最大の入港船舶数を記録したこともあるなど、日本国内湾第1位となっているなど日本最大の港としての地位を現在までに勝ち得ている。その港の原点となっているのは何なのか。

そもそも横浜港は安政5年6月19日に締結された日米修好通商条約に基づいて安政6年6月2日に、武蔵国久良岐群横浜村に開港され、生糸貿易の中心港として京浜工業地帯の工業港という、東京の外交として大きく発展することになる。このころはまだ東京のために貿易という色合いが強かったことがよく分かる。

当初は現在の神奈川県庁本庁舎付近にあった運上所の沿岸に東西2つの波止場が設けられて貿易を開始したが、大正期間にかけて新港埠頭などの港湾施設が整備されたことにより神戸港と共に東西の国際易港として、日本の近代化を牽引することにもなるのであった。これは戦前からはもちろん、戦後の日本が成長するまでの期間を指していることがよく分かる。つまりは、いかに当時から横浜港の重要性が高かったのかということを理解出来る。

実際、第二次世界大戦の際、空襲とその後の連合国軍中流により壊滅的な被害を蒙ることになるも、昭和25年に制定された港湾法に基づいて、翌年には横浜市が港湾管理者としての地位となって、戦前の国営港湾から終戦直後の連合国軍接収時代を経て市営港湾化を実現することになる。この時より、『神奈川県にある横浜港』として存在をすることになる瞬間でもあった。

昭和25年に制定された横浜国際港都建設法の下で、国際港都・横浜の中心的施設として整備を始め、現在では横浜市の東京湾沿岸のほぼ全域にまで広がり、10カ所の埠頭と249ものバースを有することになる。

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神奈川湊

横浜港、及びその周辺の歴史という事になると、遡ること鎌倉幕府の国際玄開港として繁栄していた六浦湊にまで戻ることになるが、港の原型自体は神奈川湊の方にあるとも考えられている。神奈川湊とは武蔵国橘樹郡神奈川、現在の神奈川県横浜市神奈川区神奈川本町、青木町付近にあった。

この頃から神奈川湊は中世から東京湾内回交通の拠点のひとつとして、鎌倉幕府が置かれた13世紀以降、湾内の物流が活発になると共に神奈川港も発展して行く等、重要な拠点であることに変わりはなかったのだ。重要性云々においては武蔵国としては実に貴重な物資搬入としての入り口の機能が高かったということだ。残されている記録によれば、室町時代の明徳3年の段階では、東京湾の主要積出港の一つとして機能していたことも明らかになっている。神奈川湊とその湊町は鎌倉時代には鶴岡八幡宮が支配しており、室町時代には関東管領・上杉氏の領地となる。その後、戦国時代には後北条氏の家臣でもあった多米氏が支配した天正18年に徳川家康が江戸に入府するとその支配下に加わった。慶長6年においては、神奈川湊の湊町は神奈川宿として東海道の宿場となって、以後江戸幕府の直轄地となる。

その後江戸の発展に伴って、全国各地からの物資輸送と江戸湾内回交通が活発となったこともあり、神奈川湊など湾内の各湊でも廻船業を営む者が現れるなど、江戸幕府から横浜港としての価値はますますその重要性を増していくことになるのだった。

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神奈川宿

神奈川湊に連なる『神奈川宿』は、東海道五十三次の3番目の宿場となっており、武蔵国橘樹郡、今の神奈川県横浜市神奈川区神奈川本町付近にあった。神奈川湊の傍に併設された町であり、相模国や武蔵国多摩郡方面への物資の経由地として栄えていた。なお幕末には開港場に指定されていたが、実際には対岸の横浜村が開港となって、開国以降次第に商業の中心はこの横浜村に移っていった。

町の構成としては、神奈川町と青木町の二町からなり、両町の境には滝野川が流れている。江戸川の新宿村に隣接する江戸見附から順に並木町、新町、荒宿町、十番町、九番町、仲之町、西之町と続いて滝野川を渡って、滝之町、久保町、宮之町、元町、七間町、下台町、上台町、軽井沢といった町並みが続いていた。本陣は石井本陣が西之町に、鈴木本陣が滝之町にそれぞれ置かれており、問屋上は仲之町に、一里塚は下台町にそれぞれ設置されていた。町並みに関しては東海道沿いのみに限らず、十番町からは内陸に仲木戸横町が延びて、仲之町から海辺沿いに小伝馬町、猟師町、内陸には飯田町、御殿町、二ツ谷町がそれぞれあり、枝郷として神奈川町、青木町と続いていた。

急騰街道は現在の国道15号と宮前商店街を通って、神奈川駅及び青木橋の西側、台町、上台橋を通っていた。旧東海道はそのまま上方見附を経て芝生村から現在の環状1号線に沿って天王町駅、保土ヶ谷駅方面へと進んでいく。

亀の子煎餅が名物とされていたが、現在は提供している店舗が存在しておらず、台町から海を見下ろす眺望は十返舎一九の『東海道中膝栗毛』や歌川広重の浮世絵にも紹介されて名所として観光客を集めることになる。神奈川沖の海は、葛飾北斎の『富嶽三十六景』神奈川沖浪裏にも描かれていた。また、宮州の潮干狩りも名物として盛んに人々で賑わいを見せていた。

明治22年には神奈川町、青木町、芝生村が合併し神奈川町が成立して、1901年に横浜市に編入された。

素晴らしきかな、横浜港の歴史