素晴らしきかな、横浜港の歴史

開港50周年記念

記念式典開催の年

1859年に横浜港が開港したことにより、国際貿易港としての地位を築くことになった横浜港では記念式典が行なわれるようになっている。冒頭でも離した150周年記念の前に、他に開港記念として3回同様の催し事が開かれている。横浜が開港してから節目ともなる50年の1909年、戦前の子の時期に横浜港が開港して50年が立つということで記念式典が執り行われていた。

そこには司法大臣を始めとした、政財官界の有力者を始めとした面々の他、言論界の代表など、そして在校各国軍艦の司令官らを招待して式典は開始された。式典においては軍楽隊の『君が代』吹奏、小学校児童による市歌斉唱、来賓祝辞などを行なう。そして開港記念として、横浜市開港記念会館のお披露目もされて、式典は滞りなく終了するのだった。

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横浜市開港記念会館

横浜港開港50周年記念して建設されて、現在も横浜市中区公会堂として利用されている。大阪市中野島公会堂などとともに大正期の公会堂建築の中では、有名な建築物の一つでもある。設計原案並びに基本構造設計は福田重義と山田七五郎が行なっている。建築当初の建築様式は、辰野式フリークラシックと呼ばれている様式で、関東大震災後、構造補強が施されており、復興デザインが加えられている。

概要

  • 1913年(大正 2年):横浜港開港50周年を記念して記念館の建設が計画され、設計案のコンペが実施された。
  • 1914年(大正 3年):工事着工
  • 1917年(大正 6年):6月30日竣工、7月1日開港記念横浜会館の名称で開館。
  • 1923年(大正12年): 関東大震災により倒壊。時計塔と壁体の一部のみが、かろうじて残存した。
  • 1927年(昭和 2年): 震災復旧工事が竣工。ただしドーム屋根は復元されなかった。
  • 1945年(昭和20年): 太平洋戦争終戦後、連合国進駐軍により接収される。通称名は「メモリアルホール」
  • 1958年(昭和33年): 接収解除。
  • 1959年(昭和34年): 横浜市開港記念会館に名称変更。
  • 1985年(昭和60年): 横浜市内で創建時の設計図が発見される。
  • 1989年(平成元年): ドーム屋根等が横浜市により復元される。9月2日に国の重要文化財に指定される。

時計塔の高さは36mあり、「ジャックの塔」の愛称で呼ばれ、「キングの塔」(神奈川県庁本庁舎)、「クイーンの塔」(横浜税関本関庁舎)とともに横浜三塔の一つである。

施設

  • 講堂(481席)
  • 会議室(9室)
  • 資料コーナー
  • 自動販売機コーナー
  • 事務室

建築概要

  • 設計 - 山田七五郎、佐藤四郎(原案は福田重義)
  • 竣工 - 1917年(大正6年)
  • 建築面積 - 1,520平方メートル
  • 延床面積 - 4,426平方メートル
  • 構造・規模 - 煉瓦造(一部RC、SRC造)、地上2階建+塔屋5階建、地下1階建
  • 所在地 - 〒231-0005 神奈川県横浜市中区本町1-6

横浜市歌

記念式典を記念して作られた市歌で、開港50周年記念台祝賀会式典の席で初披露された。これ以降、市民にも広く歌い継がれており、横浜市を代表する歌となっている。作詞は森鴎外、作曲は東京音楽学校教師の南能衛が担当している。この曲は、横浜市が東京音楽学校に仲介を委託して、南先生が旋律を作ったうえに、森先生が歌詞を作って完成させた曲となっている。ちなみに、このときの謝礼金として、森先生には100万円、南先生には50万円が提供された。

この歌は現在でも小学校の校歌と共に歌唱指導がされているほど定番曲となっている。開港記念日や、私立小・中学・高校の卒業式、さらには市大会などの行事でも演奏・斉唱されている。横浜私立大学の入学式、および卒業式でも演奏され、横浜市の式典や市職員の会合などでも愛唱されている。またプロ野球横浜DeNAベイスターズの試合前の練習時間に流れるBGMとしても使われ、さらに横浜商業高校の野球部で特典を挙げたときにはこの演奏が流れるなど、横浜市民にとっては非常に馴染みのある曲となっている。また、横浜市営バスの一部バス停に、市営バスが到着する際の接近チャイムとしても使用されている。

大桟橋に客船が入港する際も、この曲を行進曲風にアレンジしたバージョンを流して歓迎の意を表すことが慣例となっている。

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日米修好の証となる桜の木

1912年、この年に日本からアメリカに対して友好の証としてあるものが送られたことをご存知でしょうか?その送られたものというのが桜の木です。桜の木が植えられたそのアメリカの地区ポトマック湖畔一帯は、現在では世界的に有名な桜の名所となるほどに成長することになっています。日本以外にも世界のも桜の名所となっている場所がある、これを聞くだけで日本人として誇りに思えるほど、良いことですね。その後一時期はアメリカと敵対することになりましたが、アメリカが反日感情に任せて桜の木を燃やすなどといった暴挙に出なかったことが幸いでしたが、もしもそのような暴動が起きてしまったら、今のような日米関係は築けていなかったかもしれないですね。

この桜の木の寄贈に関して、実は横浜が深く関わっているということをご存知でしょうか?そもそも桜の木増を提唱して、植樹実現のために大きな貢献をしたのが、実は日本人ではないんです。

提唱したのは、当時日本に在留していたアメリカ人紀行作家の『エライザ・R・シドモア』さんの提唱により、それは実現することになりました。彼女が動かなければ、アメリカに桜の木が有名な観光スポットになることも無く、そして外国で桜の鑑賞ができるということも実現できなかったということです。

桜の木の植樹を提唱したエライザさんは死後も横浜外国人墓地でその亡骸を安置されており、それを見送るように横浜港から桜の木が一路、アメリカへと旅立っていくことになったのでした。横浜が貿易港として開港していたこともあり、当時横浜に在留していた外国人だからこそ出来たのでしょう。そして着発地点となる横浜港から、その寄贈する桜が横浜から旅立っていく様を見て、エライザさんはどう思ったのでしょうか?

その後1991年にワシントンから里帰りしてきた桜の苗木5本を『シドモア桜の会』によって、横浜外国人墓地にあるシドモア墓の傍らに植えられることになりました。そしてその桜たちには『シドモア桜』と呼ばれるようになり、多くの人に親しまれている桜となっています。自らの祖国に桜を植えることを提案し、そしてサ自らの骨を日本に植えることにしたエライザさんの墓所付近には、彼女の性が付けられた桜が植えられることになって、きっと死後もその桜の美しさに見とれながら楽しんでいることでしょう。

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