素晴らしきかな、横浜港の歴史

日本とアメリカの邂逅

黒船、襲来

嘉永6年、その時は来た。アメリカ合衆国のペリー提督が黒船を率いて浦賀沖に来航した年だ。この時、船の存在を確認した日本人達は今まで見たことのあるロシア・イギリス各国家海軍の帆船とは違うことははっきりと理解して、その様相も外輪と蒸気機関で航行し、帆船を1艦ずつ曳航しながら煙突からはもうもうと煙を上げているところから、『黒船』と呼ばれるようになった。

見知らぬ船の来航ということもあり幕府も警戒することになるが、その時にはアメリカの独立記念を祝うための空砲を放つことの事前通告が届いてた。お触れにより町民達も知っていたはずだが、最初の

空砲を放ったことで江戸の町は大混乱に陥ってしまう。敵襲として恐れているが、後に空砲だということを知ると、お祭感覚として花火でも鑑賞するように、町民たちは楽しんでいたという。もちろん、本気で大砲を撃ってくるようなことになっていれば、黒船のが備えていた約73門もの大砲が火花を放って、横浜港はおろか、江戸の街も焼け野原となっていたことは間違いない。

そうした事態にはならないということをまるで予想しないのか、浦賀は見物客でいっぱいになって勝手に乗船して接触を試みる人も出てくるなど、異国文化の交流としては旺盛な人がいたということだ。

黒船の目的を尋ねるためにに浦賀奉行所与力の中島三郎助を派遣して、来航目的をたずねることは出来たが、肝心のアメリカ大統領の新書に関しては最高位の役人でなければ渡さないとして、新書の提供を拒否していた。当時の将軍でもあり徳川家慶は病床に伏せていたため、将軍自らが受け取れる状況でなかったため、老中首座阿部正弘は浦賀奉行の戸田氏栄・井戸弘道にペリーから国書を受け取るように命じる。

その後二人は無事に国書を受け取ることは出来ても、決定はすぐには出来ないとして1年間の猶予をくれとの要求をし、翌年またやってくるという一言を残してペリーは江戸から去っていった。

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日米和親条約の締結

1年という来航猶予があったが、将軍家慶が死去したという情報を入手したペリーは僅か半年という時間で来日をしてくる。将軍不在のまま突然の来航により幕府は焦ることになるが、このままでは先頭になることを恐れて、ペリーとの会合に望むことになる。結果として日米和親条約は締結されることになり、安政5年には神奈川県沖小柴に浮かぶポーハタン号上で結ばれた日米修好通商条約により、神奈川の開港が定められることになる。横浜港が国際的貿易港として道を踏み出した歴史的瞬間でもあった。

幕府はその存在を危ぶんでいたが、市民達の反応は全く違っており、漁師たちが釣った魚を提供したり、そのお返しとしてビスケットを謝礼にするなど、異国の人間同士の交流としては実に友好的に行なわれていたのだ。結局のところ、国のトップは征服されてしまうのではという焦りがあったのだが、市民からすればそんなことを考えるほどの情報も入手していなかったので、見たことのない外国人との交流の方が、刺激的で楽しい娯楽の一つのように感じていたのかもしれない。

日米和親条約 詳細

日本とアメリカが締結した日米和親条約、別名神奈川条約とも言いますが、そもそも条約の内容はどんなものだったのでしょうか?具体的な内容は以下の通りとなっています。

  • アメリカに物資を補給(薪水給与)するために下田、函館を開港(条約港の設定)すること。(第二條)
  • 漂流民の救助、引き渡し。(第三條)
  • アメリカ人居留地を下田に設定する。(第五條)
  • 片務的最恵国待遇(第九條)

という内容になっている。この条約を日本は苦虫を噛む思いで受け入れることになった。なぜそこまで拒むことになったのか、それは1842年のアヘン戦争にて、清国に敗北したことが一番の原因となっている。この敗北を気に、江戸幕府は異国船打払令を薪水給与令に改めることを決定した。この変更についての幕府の意図としては、諸外国の船舶には穏便に帰国してもらうことを目的としていた。しかしそんなにほんの思惑とは裏腹にアメリカは1853年にペリー大佐を派遣して、日本の鎖国体制を解除するように呼びかけることになったのだ。

ではなぜアメリカがこうまでして日本に対して鎖国を要求することになったのかというと、それは産業革命を迎えたい西ヨーロッパ各国が世界へと進出するためにと、各地で植民地の争いを繰り広げていたことも大きい。特にフランスとイギリスは東南アジアと中国大陸の清国への市場拡大を目標にしてそれぞれが熾烈な戦いを繰り広げている中で、アメリカは出遅れてしまう形となってしまったのだ。何とかシャムとマスカットとの条約を締結することに成功するにいたっても、やはり当時の世界大国でもあるイギリスとフランス相手ではまだ分が悪かった。そのため、1835年に清と日本に対して条約締結をするために特使を派遣することにしたが、日本への条約締結には至らなかった。中国との条約締結に至らなかったこともあり、これでは太平洋の航路を確保したいアメリカにとって死活問題だった。

アメリカを中心に使用していた蒸気船では十分な燃料を積み込むことが出来ないという欠点があったため、補給の寄港地という名目でどうしても太平洋上の航路として、日本の寄港地が必要だった。北太平洋上で鯨油を目的とした捕鯨活動をする際にしても、もし自国の船員が漂流したということになれば、アメリカに対しての引渡しもままならないため、様々な要因から日本とはどうしても条約を締結しなければならなかった。ペリーの働きで何とか条約を取り付けられて、日本も永きにわたる鎖国体制を撤廃することになったが、条約締結までの道のりも困難だった。それは、元々日本と通商関係をしていた諸外国はオランダが主だったために、日本には英語という語学に対して理解を深めている人間が一人もいなかったのだ。アメリカにも、今まで諸外国との交流に対して難色を示していた島国の言葉を把握している人材など存在していないために、両国はオランダ語の通訳を挟んで会談することになった。

浦賀での条約を取り付けることに成功したアメリカはその後、伊豆国下田の了仙寺で、さらに和親条約を細則をまとめるため『下田条約』を締結する。下田条約の内容としては以下の通りとなっている。

  • アメリカ人の移動可能範囲は下田より7里、函館より5里四方に限り、武家・町家に立ち入る事を禁ず。
  • アメリカ人に対する暫定的な休息所として了仙寺・玉泉寺に置き、米人墓所は玉泉寺に置く。

アメリカ人が鳥獣を狩猟する事を禁ず。

細則として、やはり日本国内でアメリカ人が領土の中で好き勝手をすること事態を禁止していることから、確かに鎖国体制を解除したことになったとはいえ、やはり日本としては他の国との交流を行いたくなかったのは目に見えている。確かに一部の市民にとっては、自分たちが見たこともないような人たちとの接触は刺激的なこととなるが、幕府としてはそんな外国たちが日本の国民に対してよからぬことを吹き込むのではないかということを危惧していたのだろう。そうでなければ、こうした限定的とも言えるような内容を取り付けるような真似はしないはずだ。当時の幕府からすれば、国民が見聞を広めるということを何より恐れていたのかもしれない。そして、自分達の国がいかに井の中の蛙であるのかを思い知らせるようなことはしたくなかったのだ。

日本が島国で、どれほど小さな国であるのかということさえ隠匿したかった幕府にとっては、外国の戦力はもちろんのこと、自分たちが信じて疑わなかった日本という国が世界から見ればちっぽけな島国だった、なんてことが知られるようなことになれば暴動が置きかねない、そして国民全体の国に対する士気が下がってしまうことを何より恐れていたに違いない。

開港への歩み

日米修好通商条約後、幕府は松代藩士・佐久間象山、外国奉行・岩瀬忠震らのいけんにより、東海道に直結する神奈川宿・神奈川湊を避けて対岸の横浜村に開港場を新設することを決定する。対して諸外国の公使は神奈川の開港を求め、神奈川宿周辺に領事館を開くことを決める。しかし開港後は居留地で取引が活性化して神奈川湊は衰退してしまい、居留地が外国人向けに整備されるなど既成事実が積み重なって諸外国も横浜開港を受け入れることを決定した。

横浜は大岡川によって土砂が堆積するという不利点があったものの、南に本牧台地があるために風を防ぐという利点があった。横浜沖はすぐに推進を増す工事が施されるようになり、当時の横浜村は砂州の上に形成されていた半農半漁の寒村で相前後して居留地・波止場・神奈川運上所・神奈川奉行所などを整備し東海道から横浜村に至る脇往還が短期間で造成された。これらの事業や初期の街づくりを担うことになったのは、神奈川宿・保土ヶ谷宿や周辺の村々の人々たちの功績だった。

横浜開港の成功の背景には、神奈川湊及び同宿によって培われた経済的基盤が存在したとされている。下田出身の写真家・下岡蓮杖の浄瑠璃『横浜開港奇談お楠子別れの段』では、開港の功労者として吉田新田の吉田勘兵衛・保土ヶ谷宿本陣家の軽部清兵衛、石川村名主の石川徳右衛門を挙げている。

安政6年6月2日、横浜港は開港し貿易を開始し、その日を横浜市は開港記念日として定めた。開港に先立ち横浜への出店を奨励する御触を出して、江戸の大商人や神奈川湊など江戸湾内の廻船問屋のほか全国から日と挙げようと意気込む商人が集まったこともあり、横浜は貿易港のみならず商業が意図しても急速的に発達することになった。

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年表

  • 仁治2年(1241年) 六浦湊と鎌倉を結ぶ朝夷奈切通が開通し、現・横浜港域が歴史の表舞台に登場。幕府の玄関口として文化・交易・産業に栄え神奈川湊、そして横浜港へと続く発展の序章となった。
  • 明徳3年/元中9年(1392年) 神奈川湊が湾内の主要港として記録に現れる。
  • 慶長6年(1601年) 神奈川を東海道の宿場、神奈川宿とする。
  • 元禄7年(1694年) 明の心越禅師が六浦湊の景色を故郷の瀟湘八景になぞらえて漢詩にして詠み、金沢八景とした。
  • 嘉永7年(1854年) 武蔵国久良岐郡横浜村で、日米和親条約が締結される。
  • 安政4年(1857年) 浮世絵・金沢八景を描いた歌川広重、武陽金沢八勝夜景(版画3枚続・蔦屋版)を完成させる。
  • 安政5年(1858年) 神奈川沖で日米修好通商条約が締結され、「神奈川」の開港が定められる。
  • 安政6年6月2日(1859年7月1日) 横浜港が開港。同時に、神奈川運上所(現・財務省横浜税関)を設置。横浜村を横浜町と改称。

素晴らしきかな、横浜港の歴史