素晴らしきかな、横浜港の歴史

黒船の主、ペリー提督

マシュー・ペリー

黒船の主でもあるペリー大佐に関して、実はそこまで知識を持っていなかった。ただ日本にきて開国を要求したという情報だけを歴史の勉強として学んだだけで、ペリーという人となりをどこかで多少なりとも勉強したということはないので、そこまで詳しく知らなかった。ということで、この記事を書くことで少しでもペリーという人を理解して見ようと思う。

まずは本名だ、名前は『マシュー・カルブレイス・ペリー』という名前で、兄にはエリー湖の戦いにおけるアメリカ海軍の英雄でもあるオリバー・ハザード・ペリーを持つ。英雄の兄を持つということではないが、日本の将軍の死を狙って開国を差し迫ろうとした判断は、間違いなく兄譲りともいえるように政治的手腕を発揮しているといえるだろう。

彼の出生についても話していこう。ロードアイランド州ニューポートでアメリカ海軍私掠船長のクリストファー・レイモンド・ペリーと妻のセーラとの間に三男としてこの世に生を受ける、根っからの軍人家系の生まれということだ。1809年には二人の兄に倣う様にペリー本人もアメリカ海軍へと入隊し、1812年からの米英戦争には兄達と共に祖国のために戦う。1833年にはブルックリン海軍工廠の造船所長に任命され、1837年にはアメリカ海軍2隻目の蒸気フリゲートフルトン号を建造し、同年海軍大佐へと昇進を果たすことになる。1840年6月には同海軍工廠の司令官となり、代将の地位を得ることになる。僅か三年で大佐から代将の地位を獲得したところを見ると、よほど軍本部からの信頼も厚かったという事に他ならない。その後1845年に米墨戦争が勃発すると、後年日本に来航するミシシッピ号の艦長兼本国艦隊副司令官として参加し、メキシコ湾のベラクルスへの上陸作戦を指揮し、後に本国艦隊の司令官にまで昇進を果たすことになる。蒸気船を主力とする海軍の強化策を進めると共に、士官教育にも関わり、蒸気船海軍の父とまで称えられるほど、兄のオリバー以上の英雄にまでなるようになっていた。やがて海軍教育の先駆者として誇られるようになり、そんな偉大な功績を残すことになった息子の姿を見て、両親は心から喜んだことだろう。

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日本開国任務を受けて

その後ペリーは東インド艦隊司令長官に就任すると、日本開国の指令を与えられた。この時本国からは発砲禁止の命が課されていたこともあり、元々日本とは戦争をする気はなかったのだ。1852年11月、フィルモア大統領の親書を携えてバージニア州ノーフォークを出港し、フリゲート勘ミシシッピ号を千巻とした4席の艦隊はカナリア諸島・ケープタウン・シンガポール・香港・上海・琉球・小笠原諸島を経由して日本へとたどり着いた。その後開国までの段取りを付けたことにより、日米和親条約を取り付けることに成功し、さらには琉球王国とも琉米修好条約を締結することになる。

そんなペリーも晩年にはアルコール依存症・通風・リウマチを患うことになり、1858年にニューヨークで死去することになる。

人物

大変家族思いで、子ども達は兄弟喧嘩をしないよう強く戒める手紙を書き残しているなど、彼の自分の子供達に対する愛情が深かった証拠となっている。しかし彼はそんな自分の家族達には大変良い、理想の父親としての姿を振舞っていたが、水平や海兵隊員、他の士官達には威張った態度、挨拶や合図の声が熊のように聞こえるとして『熊おやじ』と隠されてあだ名されていたという。仕事の中ではそうした厳格ある指揮官として振舞うことで、未来の若き担い手達の糧となる姿を描いている。

また、奴隷の帰国事業にも尽力をしていたこともあり、リベリアではペリーのことを知らないものはいないとまでに、その名を知っている者が多くいた。

日本海国任務を与えられたペリーは、日本遠征の独自の基本計画をウィリアム・アレクサンダー・グラハム海軍長官に提出した内容は、彼が日本を開国するための手段と、日本人の反応を推察したことで考えた案が書かれていた。日本人は蒸気船のことを知っているかもしれないが、今まで見たことがない人が沢山大いにきまっていると思い、そんな蒸気軍艦を目の前で見ることで恐怖感を与えられるのではと考えた。そうなれば近代国家の軍事力がどれほどの者なのかという圧力も掛けられ、さらに中国人と比べても日本人に対しては『恐怖に訴えるほうが、友好に訴えるより多くの利点を得られる可能性があると考えた。またオランダの貿易を妨害することを考えても、長崎では既にオランダの地位が築かれているため、アメリカのためにはならないとして東京湾内にある横浜港に目を付けた。

この時点で、日本がとるであろう行動を把握しており、その行動を呼んだときに一体どうやって動くのかということをペリーはほとんど呼んでいたことになる。どの道、日本はペリーが来日したことによって、既に日本に与えられた選択肢は開国という一つしかなかったということだ。

ペリー艦隊

旗艦:「サスケハナ」

外輪式フリゲート:水線長76メートル、満載排水量3,824トン、乗員300名。

装備 10インチ砲3門、8インチ砲6門

旗艦:「ミシシッピ」

外輪式フリゲート:水線長70メートル、満載排水量3,230トン

装備 10インチ砲2門、8インチ砲8門

旗艦:「プリマス」

帆船:水線長45メートル、満載排水量889トン

装備 8インチ砲8門、32ポンド砲18門

旗艦:「サラトガ」

帆船:水線長45メートル、満載排水量896トン

装備 8インチ砲4門、32ポンド砲18門

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階級に関して

ペリーの階級に関して、当時の日本人達は彼のことを『水師提督マツテウセベルリ』と記載している。当時の提督というくらいは、清朝の最高位の武官の間職名となっており、水師提督というのが海軍の最高位の軍人、ということを記しているがこれはアメリカ的なものを考えると間違った解釈となっている。ペリーはあくまで代将ということで、提督という立場は異なっている。実際にこのときも、ペリーは日本海国任務を果たしたときには、元の階級でもある大佐に戻っている。

ではどうしてこのような階級についてここまでの差が出てしまうのか、それは古来の欧米諸国の海軍においての階級についての説明から進めてみる。当時の海軍、平時の最上位としては、ここの千党間の指揮官である大佐であり、戦時のみ複数の戦闘艦が集められて艦隊が編成されることにより、艦隊司令官として提督という階級が与えられる。ところが平時においても複数の千党間の指揮官が必要になる場合があるとき、各戦闘艦の艦長の内に最先任者が代将として艦隊を率いることになる。当時のアメリカ海軍においては、こうした伝統を踏襲しての階級制度を取り入れていたが、提督に昇進するためにはアメリカ議会での承認が必要となっており、1862年まで誰一人として承認を得られるものがいなかったために、実質的な最高位としては大佐がアメリカ海軍の最高位となっている。そして艦隊の指揮を執る必要がある場合においては、大佐か中佐が一時的に代将の地位が与えられるというどこか変則的な地位があった。

しかしこうした伝統があったとしても、フィルモア大統領の親書においては、ペリーがアメリカ海軍の最高位の軍人であることを記載されていたため、あながち『水師提督』という言葉は間違っているというわけではない。但し現代の言葉ではペリーを提督とするのは間違っていることになり、但しくはペリー大佐、と表記しなければならない。

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